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May 31, 2026
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FAQ

jun 30, 1934 - 長いナイフの夜事件

Description:

長いナイフの夜事件、又は、レーム一揆、レーム事件。

1934年6月30日から7月2日にかけて、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が行った突撃隊(SA)などに対する粛清事件。

粛清は正式な法的措置を執らずに行われ、エルンスト・レームらSA幹部、ナチス左派の領袖だったグレゴール・シュトラッサー、元首相で名誉階級陸軍大将のクルト・フォン・シュライヒャーなど、党内外の人々多数が裁判を経ずに殺害された他、党の権力争いと直接関係のない人物も粛清執行の当事者の私怨などにより犠牲となった。

当局の公式発表によると77人が死亡したことになっているが、116名の死亡者の氏名が明らかになっている。亡命ドイツ人の発表では千人以上という数値も主張されている。

注:事件名は、5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち(長いナイフの裏切り)にちなむ。

背景:突撃隊の幹部達はこの国民革命が生温いと考えており、第二革命である「褐色革命」を求めていた。

注:褐色は突撃隊、灰色は国軍の制服の色を指す。

彼らは政策に不満感を持っていたものの、ヒトラー個人に対する忠誠心は持ち続けた。

また幕僚長レームらは、国軍にかわって突撃隊が新たな軍となることを目指していた。

国軍首脳は突撃隊を押さえることを要求し、ヒトラーはレームを無任所大臣にして懐柔しようとする一方、「新しい軍は褐色ではなく灰色になる」として突撃隊を牽制した。

一方、親衛隊の長である親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは各州の警察権力を徐々に手に入れていった。1934年4月22日にはプロイセン州警察とゲシュタポの管理権限も与えられ、親衛隊は実質的な全土の警察権力を手に入れた。

彼らとヒムラーに権限を譲ったゲーリングは、自分たちを「君側の奸」と見ているレームら突撃隊幹部排除の計画を建てた。

6月頃から突撃隊反乱のうわさが流れはじめ、情勢は不穏になった。6月17日、副首相パーペンがマールブルク大学で突撃隊と暗にナチ党に対する批判演説を行った。

ゲッベルスは演説の放送禁止などの措置をとったものの、粗暴で同性愛者が多いなどという突撃隊に不信感を持っていた人々からは広く共感を得た。

ヒンデンブルク大統領と国軍も突撃隊に対する何らかの措置を求め、もしもの場合は大統領権限で戒厳令を布告すると通告した。ここにいたってヒトラーも突撃隊粛清の意思を固め、親衛隊に準備を命じた。

6月30日、ヒトラーとの幹部会議の名目で突撃隊幹部達はミュンヘン郊外のホテルに集められていた。

この日の早朝、ヒトラーは自ら幹部とともにレームらの逮捕を行った。またベルリンなどでも親衛隊が動き出し、次々に逮捕・処刑した。

また前首相シュライヒャーやフェルディナント・フォン・ブレドウ将軍、元組織全国指導者グレゴール・シュトラッサー、マールブルク大学の演説原稿を書いたパーペンの秘書エドガー・ユリウス・ユングなどの政敵も逮捕・暗殺された。

パーペンも自宅に軟禁され、外部との連絡を絶たれた。ヒトラーはナチ党草創期からの同志レームを助命したいと考えていたが、ゲーリングらの説得に応じて7月1日に処刑命令を出した。

こうした「長いナイフの夜」と呼ばれる一連の粛清は7月2日まで続いた。

7月3日には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」が制定され、この粛清は合法的なものであるとされた。

突撃隊は素行が悪く評判も悪かったために、粛清は大方の国民から好感を持って受け入れられた。

こうして党内の最大勢力突撃隊は骨抜きにされ、親衛隊の勢力が大きく拡大していくことになる。

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Date:

jun 30, 1934
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