33
/
AIzaSyAYiBZKx7MnpbEhh9jyipgxe19OcubqV5w
May 1, 2025
6949660
518622
2

jul 31, 1932 - 1932年7月ドイツ国会選挙

Description:

ヒンデンブルク大統領は国会を解散し、総選挙が7月31日に行われることになった。

この1932年7月ドイツ国会選挙で国民社会主義ドイツ労働者党はさらに躍進、230議席を得て第一党となった。

パーペンは辞職してヒトラーに政権を渡すことを考えた。またヒトラーは自身を首相とする内閣改造案をシュライヒャー将軍に打診し、シュライヒャー将軍はヒトラーの要求をヒンデンブルク大統領に伝えたが、大統領は拒絶した。

ヒンデンブルクはこの時にはヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていた。

8月5日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、副首相の地位を提示した。しかしヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求。シュライヒャーはヒンデンブルクとヒトラーを会見させることのみ約束した。

8月13日、ヒトラーはベルリンを訪れシュライヒャー、パーペンと相次いで会談した。シュライヒャーとパーペンはヒトラーに副首相としての入閣を提案したが、ヒトラーは受け入れなかった。

その日の午後3時、ヒンデンブルクとヒトラーの会談が始まった。ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルクは拒否し、突撃隊によるテロへの警告を行うとともに、パーペン内閣への協力を求めた。

ヒンデンブルクは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には最大限厳しく対応すると回答し、ヒトラーは自制心を保ったが怒りで爆発寸前だった。

ヒトラーは退出後には自分を『屈辱的な会談』に引っ張り出したパーペンを激しく罵った。すっかり気落ちしたヒトラーは副首相の地位でも良いかと弱気になったが、パーペンがこの会見の模様を新聞にリークしたことで激怒した。

憤激した突撃隊が直接行動に出ようとする動きもあったが、突撃隊には2週間の休暇が与えられることで沈静化した。この新聞発表にはナチ党を引き入れようとしたシュライヒャーも当惑し、パーペンを見限って新政権を建てることを計画し始めた。

折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害事件に対して死刑判決が出された。

ナチ党は「血の判決」だとパーペン政権を非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた。ナチ党は対テロ闘争緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制収容所に収容されるだろうと論じていた。

Added to timeline:

1 Apr 2023
0
0
601

Date:

jul 31, 1932
Now
~ 92 years ago