6 Nov 1932 Jahr - 1932年11月ドイツ国会選挙
Beschreibung:
前回の選挙で資金を使い果たしたナチ党にとっては厳しい選挙戦となった。大多数のメディアはナチ党に敵対的であったし、ナチ党はラジオの利用も許されなかった。
選挙期間中、ナチ党は保守主義者パーペンを攻撃し、またベルリン交通労働者のストライキを共産党と一緒に支持したことなどから、ナチ党を共産主義・社会主義とみなすイメージが中産階級の間で広まった。新聞もナチ党を共産党扱いし、共産党を警戒する財界人は援助を引き上げた。
1932年11月ドイツ国会選挙でナチ党は第一党は確保したが、前回比200万票を減らし議席数も230から196に減った。
支持を伸ばしたのは共産党とドイツ国家人民党だった。共産党が着実に議席を伸ばしていることが保守派の警戒心をあおった。
パーペンはナチ党を含む各党に協力を求めたが、拒否された。パーペンは辞任の意向を伝えたが、ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜい(ヒトラーのこと)にビスマルクの椅子を与えるわけにはいかない」とヒトラーを拒否した。
それから2回ヒンデンブルクとヒトラーの会談が行われたが、またしても交渉は物別れに終わった。このようにヒンデンブルク大統領は変わらずヒトラーを嫌い、ヒトラーもヒンデンブルクを軽蔑していたが、大統領の後ろ盾を得ずに権力を掌握することは不可能であった。
この間にヒトラーを首相にするようにという請願書が多数大統領の下に送付された。特に11月19日にライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト、合同製鋼(ドイツ語版)社長フリッツ・ティッセン、ヴィルヘルム・クーノ元首相ら「ケップラー・グループ(ドイツ語版)」の政財界人が連名で送った請願書は有名である 。
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